日本語ライティングへの応用

 

問題の原文には、細かいことも含めれば非常に多くの問題点があります。ここでは、細かい部分の訂正についての説明は省略して、致命的な問題点のみを説明します。

 

ディベートの義務教育導入に疑問 T.S

教育課程審議会の中間報告で、国語の授業では「スピーチや討論、報告をまとめることなどを重視」とある。これで将来、ディベート(討議)を導入する学校も増えてくるでしょうが、これに疑問を呈します。

自分の最も言いたいことが最初のパラグラフに来ていません。この意見文で筆者が最も言いたかったことは、『ディベートよりも読書と作文を導入すべき』のはずです。したがって、最初のパラグラフでこれを述べなければなりません。

私が中学生のころ、話し合うことは大切なことということで、国語などの授業中に討論を行った経験があります。が、お互いに知識がなく理解も浅いのですから、討論をしたところで物事を深めることにはなりません。ましてや国語の力が身についたとはいえなかったのです。

パラグラフの書き出しが、『私が中学のころ』ではいかにも唐突です。ここで言いたいのは、『中学生では未熟なため、討論で物事を深めることはできない』ということです。したがって、これをパラグラフの先頭に置き、自己の経験はそれをより具体的に説明するために後で述べるべきです。

知識も、相手への思いやりもいたらない中学生にとって、意見の違った相手から異なった考えを学ぶというよりも、どちらが正しいかという勝ち負けの問題が優先されてしまいます。相手を傷つける感情的な発言やへ理屈、不毛な議論のための議論となってしまいます。感情的なもつれがその後まで残り、人間関係にもよくありません。

『勝ち負け優先のために、屁理屈や不毛な議論となる』ということと、『思いやりが足らず、感情的にもつれる』ということが混在し分かりにくくなっています。別々に説明すべきです。

 

また、文と文の接続も不十分で、因果関係が不明瞭になり、ぶち切れた文が並んでいるという印象を受けます。

何でもかんでも話せばよい、というわけにはいかないことを中学生には理解できないのです。教育の現状を考えれば、ディベートからいじめも起こりかねないように思います。

最初の文の意味がわかりません。『ディベートは何でもかんでも話せばよい』と言っているのでしょうか?

『ディベートからいじめも起こりかねない』ことが言いたいなら、前のパラグラフと一緒にすべきであり、『何でもかんでも云々』の文は不要です。

それよりも、文章を読む力が落ちている現在では、読書の時間を設けることを提案します。一ページでも多くいろいろな本を読むことの方が、大切だと思うのです。視野を広げ知識を身につけ、柔軟な考えができるようになると思うのです。そして、読んだものや自分の意見をまとめ、人に伝えて分かってもらうための作文指導も必要です。

論理が変です。現状の問題点が『文章を読む力が落ちている』で、読書のメリットが『視野を広げ知識を身につけ、柔軟な考えができるようになる』なら、読書は問題点を解決できません。『文章を読む力が落ちている』は不要か、さらなる説明が必要です。

 

また、第一文と第二文は同じことを言っているので、このままでは冗長なだけです。『いろいろな本を読む』だから、『視野を広げ知識を身につけ、柔軟な考えができるようになる』とつなげるべきでしょう。

 

さらに、作文指導は別の話題なので、パラグラフを変えなければなりません。一つのパラグラフに二つのこと(読書と作文)を述べると、論点がぼけ、印象に残らなくなり、場合によっては分かりにくくなります。

作文は書きさえすればよいのではなく、何を言っているのかわかり、筋を通し、ひとり善がりではなく公平に、だれにでも理解してもらえるものにしなければならないのです。筋が通っていないことに気が付けば誤りをなおすことができます。経験上、作文を細かく添削指導をして推こうを重ねれば、大学生が人間として成長したことも知っています。このようにして、人間形成という意味での教養を身につけることができるのです。

 

フランスの作文教育では、内容よりも、まずは文法的に正しいのか、何をいっているのか、つじつまが合っているのかなどを指導しています。哲学者のアランがいうように、正しく書くことは正しく考えるためなのです。正しく理解し、考える前に議論をすれば、奇弁が正論を抑えつけるようになるのではないでしょうか。

1つのパラグラフの中に、『フランスでの作文教育の内容』と『正しく書き、正しく考えることが大事』の2つのことが含まれています。このため、言いたいことが散漫になってしまっています。パラグラフを分けるか、類似のことを述べているパラグラフと結合させるべきでしょう。

 

以上のことを考慮して書き直すと、以下のようになります。(あくまでライティングの観点からの書き直しで、主旨や根拠は、できるだけ原文を尊重しました)

 

ディベートの義務教育導入に疑問

 

教育課程審議会は、中間報告で、国語の授業では「スピーチや討論、報告をまとめることなどを重視」としました。これで将来、ディベート(議論)を導入する学校が増えてくるでしょう。しかし、私はディベートよりも読書と作文教育を導入することを提案します。

 

中学生がディベートをしたところで、物事を深めたり、国語力を身につけたりすることはできません。なぜなら、中学生は国語力が未熟なため、正しく理解し、正しく考えることができないからです。事実、私も学生のころに、国語の授業中に議論をしたことがありますが、やはり効果的とは言えませんでした。

 

また、中学生がディベートをすると、無意味な議論に陥ったり、人間関係を悪くすることもありえます。なぜなら、中学生は精神的にも未熟なため、ディベート本来の目的を忘れ、勝ち負けの問題を優先させてしまいがちだからです。勝ち負けに固執するあまり、屁理屈を言い合ったり、不毛な、議論のための議論に陥ってしまうのです。さらに、相手を傷つける感情的な発言で、感情的なもつれがその後まで残り、人間関係すら悪くなる恐れがあります。最悪、ディベートからいじめも起こりかねないでしょう。

 

一方、読書に時間を割いて、一ページでも多くいろいろな本を読めば、正しく理解できる能力が身につきます。なぜなら、視野を広げ、知識を身につけ、柔軟な考えができるようになるからです。

 

また、作文の時間を設け、何を言っているのかわかり、筋が通っており、ひとり善がりではなく、だれにでも理解してもらえる作文を書くよう心がければ、正しく考える能力が身につきます。なぜなら哲学者のアランがいうように、正しく書くことは正しく考えるためだからです。また、自分の意見や考えを人に正しく伝え、分かってもらうことができるようになります。さらに、私の経験では、指導者が作文を細かく添削指導し、推こうを重ねさせれば、大学生が人間として成長したこともあります。このような効果から、フランスをはじめ欧米諸国では、この作文指導がとても重要視されています。

 

読書と作文教育を通して、正しく理解し、正しく考える能力をつけることがなによりも大事です。この能力なくして議論をしても効果はありません。ややもすれば、奇弁が正論を抑えつけることになりかねません。