書き換え例1:原文

1998.8.13

以下の文章はある新聞に投書された大学教授の文章です。この文章には、人に自分の考えを伝えるという視点からすると、ライティング的に不適切な箇所が数多く見られます。どういう点が問題か検討してみましょう。

ディベートの義務教育導入に疑問 T. S (原文)

 

教育課程審議会の中間報告で、国語の授業では「スピーチや討論、報告をまとめることなどを重視」とある。これで将来、ディベート(討議)を導入する学校も増えてくるでしょうが、これに疑問を呈します。

 

私が中学生のころ、話し合うことは大切なことということで、国語などの授業中に討論を行った経験があります。が、お互いに知識がなく理解も浅いのですから、討論をしたところで物事を深めることにはなりません。ましてや国語の力が身についたとはいえなかったのです。

 

知識も、相手への思いやりもいたらない中学生にとって、意見の違った相手から異なった考えを学ぶというよりも、どちらが正しいかという勝ち負けの問題が優先されてしまいます。相手を傷つける感情的な発言やへ理屈、不毛な議論のための議論となってしまいます。感情的なもつれがその後まで残り、人間関係にもよくありません。

 

何でもかんでも話せばよい、というわけにはいかないことを中学生には理解できないのです。教育の現状を考えれば、ディベートからいじめも起こりかねないように思います。

 

それよりも、文章を読む力が落ちている現在では、読書の時間を設けることを提案します。一ページでも多くいろいろな本を読むことの方が、大切だと思うのです。視野を広げ知識を身につけ、柔軟な考えができるようになると思うのです。そして、読んだものや自分の意見をまとめ、人に伝えて分かってもらうための作文指導も必要です。

 

作文は書きさえすればよいのではなく、何を言っているのかわかり、筋を通し、ひとり善がりではなく公平に、だれにでも理解してもらえるものにしなければならないのです。筋が通っていないことに気が付けば誤りをなおすことができます。経験上、作文を細かく添削指導をして推こうを重ねれば、大学生が人間として成長したことも知っています。このようにして、人間形成という意味での教養を身につけることができるのです。

 

フランスの作文教育では、内容よりも、まずは文法的に正しいのか、何をいっているのか、つじつまが合っているのかなどを指導しています。哲学者のアランがいうように、正しく書くことは正しく考えるためなのです。正しく理解し、考える前に議論をすれば、奇弁が正論を抑えつけるようになるのではないでしょうか。

 

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