実務文章と楽しみの文章との違い

2016.1.12

以下の文章は、講談社の「本」という小冊子への寄稿です。この文章は、大同大学と京都学園大学の入試問題(2014年国語)にも使われました。

文学的な文章と論理的な文章

 文学的な文章と論理的な文章では、書き方が違う。では、どう違うのか?論理的な文章の書き方の指導を生業とし、このたび『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』(講談社ブルーバックス)を上梓した筆者の立場から、文学的な文章と論理的な文章の相違点と類似点を考えてみよう。なお、ここで言う文学的な文章とは、小説やエッセイ、作文を指す。一方、論理的な文章とは、ビジネス文章や小論文、論説文と考えてもらいたい。

 俗に言う「起承転結」は、文学的な書き方である。「起」と「承」で文章の流れを作っておいて、いったん「転」で話を流れからそらす。すると、読み手は「おや?何だ?」と興味を高めるので、最後の「結」が効果を増すのである。論理的な文章を「起承転結」で書けば、「転」で興味を高めるどころか、「何だこの文章は。支離滅裂だ」と思われるだけである。実際、「起承転結で書きましょう」と書いてある文章が、「起承転結」で書かれていないことを見れば、「起承転結」が論理的な文章には向いていないことが分かる。

 では、論理的な文章は、どんな型を持っているかというと、総論―各論―結論である。まず総論で主張を述べ、次に各論でその主張を論証し、最後に結論で主張を繰り返すのである。最初に主張を述べるのは、主張を先に頭に入れておけば、各論の説明が、正しく主張を論証できているかを確認できるからだ。主張を知らずに各論を読んだのでは、最後まで読んだ後、「何だ、こんなことが言いたかったのか。では、さっきの各論がこの主張を正しく論証しているか読み戻って確認しよう」ということになりかねない。

 しかし、論理的な文章でも、主張を最後に書きたいと思うことがあるかもしれない。たとえば、読み手が主張に反対意見を持っていると思われる場合である。読み手が反対意見を持っているなら、主張から入ったのでは、拒否反応が出て先を読み進んでもらえない。それでは説得できない。そこで、主張は最後にだけ述べ、ステップ・パイ・ステップで説得したいというわけだ。

 しかし、それでも論理的な文章では、主張を先に述べる。なぜなら、論理的な文章の場合、主張が先に書かれていなければ、読み手は主張を捜して、文章を飛ばし読みするからである。人は、どんな主張が述べられているのかが分からないまま、文章を読み進もうとはしない。論理的な文章の場合、読み手は自分にとって都合のよいように、読み方を変えるのだ。書いてあることを書いてある順に、全部を読むのは、文学的な文章である。

 また、論理的な文章は、主張を最初に述べることで読み手の興味を引く。たとえば、「たとえ、電気代が2倍になろうとも、原子力発電所は全廃すべきだ」と述べるから、「なぜ、そう言えるのか?」という疑問の答えを求めて、後ろを読み進むのである。この主張がたとえば、「世界人類が平和でありますように」のように、誰もが賛成し、疑問も抱かない内容なら、先を読み進む気はしない。

 一方、文学的な文章は、結末(論理的な文章における主張)を隠すことで、読み手の興味を引く。結末を最初で明かしたりはしない。推理小説の犯人が誰か、あるいはライバル対決の結果がどうなるか、最初から分かっていたら興ざめだ。「この先はどうなるのだろう」というわくわく感が読み手の興味を高める。

 それでは、文学的な文章は、何から書き始めるかというと、会話や状況の描写である。突然、よく分からない会話で始まったり、何か意味深な風景の描写で始まったりすると、読み手は「何だろう」と興味を抱く。この興味で読み手を引っ張るのである。「桐島が部活やめるっつってんの、マジなんけ?」(『桐島、部活やめるってよ』朝井リヨウ)とよく分からない会話で始まるから、後ろを読みたくなるのである。

 文学的な文章は、文章の最後に結末を述べて終わりかというと、そうでもない。結末の後に、ストーリーとは関係のない風景を描写したりする。この風景描写が、文章に余韻を与える。読み手に、文章を味わう時間を与えるのである。結末だけですぱっと文章が終わってしまうと、味気ないことこの上ない。たとえば、『遥かなるケンブリッジ』(藤原正彦)では、ケンブリッジから帰国するために、近しい人たちに別れを告げるつらいシーンを、「玄関脇に、夏の名残りのへザーが、ピンクの花を咲かせて佇んでいた」で結んでいる。

 一方、論理的な文章は、最後に主張を繰り返しただけの結論で終わる。主張は、最初に述べ、最後にも述べるのである。各論で述べていないことを、結論で述べてはいけない。各論で述べていないということは、論証されていないからである。論証できていないことを結論で述べれば、論理性は下がる。

 また、論理的な文章は、パラグラフという単位で構成される。パラグラフは、段落とやや似ているが、少し違う。段落が単に、「文章における1プロック」という程度の認識なのに対して、パラグラフは、1つのトピックを述べるためのブロックである。トピックが1つという点が段落とは異なる。また、パラグラフではそのトピックを先頭文で述べる。これも段落にはない考え方である。パラグラフは、ロジックを伝えるのに向いている。1つのパラグラフに1つのトピックが割り当てられ、1つのプロックとして見える。このプロックを読み手に意識させることで、ロジックの構成が伝わる。ロジックを伝えるのに適した書き方なので論理的な文章に向いている。この文章もパラグラフを使って書いている。

 しかし、文学的な文章では、パラグラフは使わない。ロジックを伝えるわけではないからだ。段落という、もっと暖昧なプロックでかまわない。そのプロックを、読み手に意識させる必要もない。

 また、論理的な文章は、誤解を招かない明確な表現を使う。10人いたら10人が同じ理解になるように表現する。10人のうち、1人でも誤解する、あるいは理解できない可能性があるなら、その内容は丁寧に説明する。したがって、多少くどくなることもある。

 一方、文学的な文章は、読み手によって意味が多少変わってもかまわない。読み手の心情や経験によって、感じ方が変わるのが文学的な味わいである。したがって、あえてすべては書かない。書いていない部分を読み手が膨らませるので味わいが出る。

 ここまで読むと、文学的な文章と論理的な文章は相違点ばかりのように思える。そこで、最後に類似点について指摘しておこう。どちらの文章も、具体的な説明が説得力を生む。

 論理的な文章では、根拠を具体的に述べる。つまり、具体例やデータを使う。たとえば、「社内公用語を英語にすべきである」と主張するなら、なぜそうすべきかを具体的に述べる。「グローバル社会では英語が必須」などと、抽象的なことを述べても人を説得することはできない。社内公用語を英語にすると、社員の英語力がどのくらい向上するのか、会社はビジネスのどのくらいを海外に依存しようとしているのか、社員の何パーセントが英語でのビジネスを必要とするのか、その英語力はどの程度必要かなど、具体的な情報が必要だ。こういう情報があると、「社内公用語を英語にすべきである」という主張に説得力が生まれる。

 文学的な文章では、状況を具体的に描写する。たとえば、主人公の悔しさを伝えたいなら、主人公の表情や動作を具体的に描写する。「彼は悔しそうだった」などと、抽象的な描写では悔しさは伝わらない。「彼は帰りの電車の中で一言もしゃべらなかった。正面を向き、一点を見つめていた。時々目を閉じ少し上を向いた。手は、膝の上に置かれていたが、こぶしを強く握りしめていた。時々、小さな声を上げて床を蹴った」のような、具体的な描写が、人に悔しさを伝えるのである。