ディベートを学ぶと詭弁を使うようになるか 文責:倉島
ディベートや議論の仕方を学ぼうとしたり、学ばせようとすると、『詭弁を使って人を丸め込めようとしたり、白いものを黒と思わせたりするようになる』と言って、反対したり、そうならないように指導しなければならないと考える人がいます。しかし、ディベートを学んでも、『詭弁を使って人を丸め込めようとしたり、白いものを黒と思わせたりするようになる』ことはありません。全くの杞憂と言えるでしょう。
ディベートが授業の一環なら全く問題なし まず、国語の授業の一環としてディベートを教えたくらいで、人に見破られないような詭弁を意識的に使えるようになったり、「白いものを黒と思わせる」ほどの議論力がつくことはありえません。正しいことを正しいと説得する議論力ですら、身につけるのは容易ではないのです。(正直言って、国語の授業の一環程度では無理です)まして、人に見破られないような詭弁を意識的に使えたり、「白いものを黒と思わせる」ことができるようになるには、よほどの訓練を積まなければなりません。したがって、ディベートを授業の一環とする限り全く問題はないでしょう。
香西秀信氏は、その著書『反論の技術 その意義と訓練方法』(明治図書 1995.8)で以下のように述べています。
長期的に議論力を養った場合では? では、授業以外において継続的にディベートを勉強して、議論の力を養った場合はどうでしょう。この場合でも、相手に議論の力があれば、『詭弁を使って人を丸め込めようとしたり、白いものを黒と思わせたりする』ことはできません。なぜなら、議論というものは、議論の力があるものどうしが、正しく議論をぶつけ合えば、詭弁を使ったり、事実を無理矢理ねじ曲げるような論を張った方が確実に負けるからです。
ディベートで議論の力をいかに養っても、事実を無理矢理ねじ曲げるような論を張っては、議論の力のあるものに勝つことはできません。なぜなら、議論力のあるものは無理な議論に対しては容易に穴を見つけることができるからです。つまり、議論力のあるものに対して、「詭弁を使って丸め込んだり、白いものを黒と思わせたりする」ことは不可能です。もしこのようなことをディベートに期待するとしたら、あまりに期待しすぎていると言えるでしょう。そもそもディベートとは、正しいことを正しいと説得するゲームなのですから。
宇佐美寛氏は、その著書『「議論の力」をどう鍛えるか』で以下のように述べています。
相手に議論力がない場合は? しかし、議論の力がないものが、議論の力のあるものとぶつかった場合、正しい議論を唱えても負けてしまうことがあります。なぜなら、議論力のないものは、自説を穴なく構築することができなし、あるいは上手に自分の考えを伝達できないし、さらには、相手の主張が穴だらけでも、その穴を見抜くことができないからです。
宇佐美寛氏は、その著書『「議論の力」をどう鍛えるか』で以下のように述べています。
つまり、ディベートを通して、数年間継続的に議論を学べば、「弱い根拠しかない説(正しくない議論)で、議論能力のないものが主張する、強い根拠を伴った説(正しい議論)を潰す、あるいははぐらかす」ことは可能ということです。(これを詭弁と呼ぶかは?ですが)
悪用の可能性をもって、『教えるべきではない』とはならない しかしこれを実行するかどうかは、その人の人間性の問題であり、ディベートとは無関係です。これを持って、ディベートを学ぶべきでないというなら、あらゆる格闘技は学ぶべきでないということになってしまいます。
そもそも、悪用される可能性のある能力は、身につけるべきではないと言うのはおかしな議論です。なぜなら、ディベートにより鍛えられた議論能力に限らず、どんな能力でも人より優れた能力を持てば、それを悪用することは可能だからです。悪用される可能性のある能力は、身につけるべきではないと言うならば、あらゆる能力は身につけるべきではないということになってしまいます。
たとえば、お金を人一倍稼ぐ能力があれば、何でもお金に物をいわすようになる人もでてきます。これを理由にお金儲けはしてはならないと言えるでしょうか?あるいは、コンピュータに関する知識が増えれば、ハッカーになってしまう人もでてきます。これを理由にコンピュータを教えるべきではないと言えるでしょうか?
なぜ議論についてだけ、議論の能力を悪用する人間がでるから、議論の技術を教えるべきでないということになるのでしょう? |